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甲斐奈神社(かいなじんじゃ)

■住所:山梨県笛吹市一宮町橋立北畑  地図

■創建; 不詳

■本殿の様式; 

■例祭; 春分の日、秋分の日

■御祭神; 国常立尊(くにとこたちのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)

写真
大杉の跡と記念碑

■雑感
とある・・午後に訪れる機会ができた。

20号バイパスを走っていると杜も見えるのでわかりやすいだろう。

駐車場に車を止め、神門をくぐり拝殿へ行こうと境内を見渡していたところ、宮司さんらしき人が社務所にいた。

来客中ということもあり、声をかけずに先ず参拝。

末社二つほどありそれぞれ回る。本殿の背後に回ると枯死した大杉の根元部分が何とか残っていた。想像しただけでもこれは巨木だったに違いないと感じる。

そこから社務所の方に行き、境内社について話が聞けないかと宮司さんにお聞きした。ところが、話が一気に盛り上がり由緒から大杉、総社、御坂、日本武尊、酒折、建御名方神の事などいろいろと聞くことが出来た。この機会に感謝、ありがとうございます。

 


■由緒沿革 ※神社内資料より記載
甲斐國志所出の社記によれば、当社は延期式内社であり、甲斐國中式内式外大小の神祇を勧請する一国の總社であった。そのため、恒例神事、大事の際には泰幣使や宣命使が派遣され、先ず当社にて祭祀が執り行われ、それから国内の諸社に対して幣帛がわかれた。天正十年の兵火に焼かれたが、その後再建され江戸時代から戦前まで隆盛を誇ったが戦後、一時、人心が離れて著しく荒廃するも、近年氏子、崇敬者の熱意で本殿、拝殿、一の鳥居、両部鳥居、神門、神楽殿等次々に再建、改修整備され、旧に復しつつあり、甲斐國の御親神として広く崇敬を受け県内外から多くの参拝者が訪れ、社頭は賑わいを得ている。また別称が幾つかあり、神祖大明神又は橋立明神や林部の宮とも呼ばれている。

本殿後ろには天然記念物の御神木の大杉があり甲州三大杉の一つに数えられ『橋立大杉』として地方に知られていたが昭和二十八年に枯死したので其の跡に記念碑が建ててある。江戸時代までは祭礼の日に笛吹川東の神主か全て当社に参集して神楽を奏し盛大な祭祀が斎行され五穀豊穣、国家鎮護の祈祷をした。明治四十年村社に指定された。旧時の社領は四石三斗 社地は四百四十三坪であった。橋立、東原、竹原田、金田の産土神である。

 

甲斐奈神社;延喜式神名帳・論社・山梨県  

 


境内末社

大神宮;天照大御神

疱瘡神;煩大人命

稲荷社;宇迦之御魂神

山神社;大山祇神

文殊稲荷社;保食命

天神社;

菅原道真日本武尊

 


過去の写真(神社内資料より)
甲斐奈神社、昔の写真
甲斐奈神社、昔の写真2
甲斐奈神社、昔の写真3

神社内資料より記載; 甲斐國の総社

『総社』の名称は一宮と同様に平安時代末期にって文献上に散見できるようになる。これには国内総社、邸内総社、寺内総社などがあるが国内のそれは国司(現在の県知事)が任命されると、その着任式、退任式が行われ、また折々に国内の神社を巡拝することとなっていたが、当時の交通の不便さとともに、国衛に近い一社に国内の神社を勧請合祀、または一社殿を構築して勧請合祀し、便宜これを拝むに至ったが、これが総社の期限と見られている。

それで、国内神社の恒例臨時の祭儀にこの総社で先ず祭儀が行われ、その後 一之宮 二之宮等で行われた。

甲斐国史や諸文献を見ると、甲斐國の総社は神祖宮、または神親社、林部の宮、橋立明神とも呼ばれる当社、又は笛吹市の春日居町国府に鎮座する甲斐奈神社『守之宮明神』とも云われさらには武田時代に甲府に国府が移されてよりの総社として、甲府市宮前町に鎮座する府中八幡神社と云われる。

また、同時期に編纂された延期式神明帳にも山梨郷にその名が見えるが、当時は当社の辺りは甲斐國の政治文化の中心地であり国分寺や甲斐一之宮、甲斐二之宮があり、さらに、山梨群と八代郡の境界をなしており近くに林部郷や玉ノ井郷が山梨郷となっておることや、甲府が甲斐國の政治文化の中心になったのは武田時代であり、このように様々な資料、地勢など、どれをとっても当社は一国の総社であり、当然、延期神明帳に記載される甲斐奈神社は当社である。

 

自己紹介

ガーデンデザイナー本間吉隆が庭創りの探求の為に訪れた神社巡りの記憶です。

 

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